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従来の万葉集の成立経過
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ホームページ開設にあたって

 1994年秋ごろ、偶然、書店で「もう一つの万葉集」という書物を手に取ったときから、私は熱烈なほとんど狂信的とも言える「李寧熙(イヨンヒ)ファン」になった。そして李寧熙先生の著作物はすべて手に入れ、万葉集解読に関する「李寧熙先生の方法」を何とか自分でもマスターしたいと思い、その第一歩として、NHKのハングル講座などの勉強を始めたり、1999年からは地元のハングル学習会にも入会して勉強を続けている。

 しかし、「李寧煕先生の方法による万葉集の解読」のためには、「古代日韓の歴史と言語」並びに「吏読(漢字の音訓を借りて日本語や韓国語を表現する方法)」もマスターしなければならず、私の夢は「日暮れて、未だ道遠し」の状態で今日まで経過している。

 李寧熙先生は、日本最古の歌集である万葉集について「そのほとんどが古代韓国語によって詠まれている」ことを指摘し、実際に今まで難訓あるいは意味不明とされてきた歌々を小学生や中学生でも「本当に意味がわかるようにして」現代に甦らせた。また、日本語の語源についても、「こじつけ」としか思えないような従来の解釈を排し、韓国語からの変遷の過程を法則的に明らかにするなかで明快かつ説得力ある解説を行ってきた。

 これらの李寧熙先生の業績は、すでに「もう一つの万葉集」(1989年文藝春秋社刊)以下8冊の単行書と「記紀万葉の解読通信」において発表され、多くの読者を獲得して我が国の文学界や言語学界そして日韓の古代史研究の分野に大きな衝撃を与えたところである。しかし残念ながら、これらの学会に身を置くほとんどすべての研究者達は後発のものに真実を突きつけられたことを快く思わず、無視を決め込んでいるというのが実状であろうと思う。

 加えて、李寧熙先生が寄稿をしていた「記紀万葉の解読通信」(ペン・エンタープライズ)とのトラブルも発生し、先生の心労をわずらわせることとなり、解読作業を進めるための環境は最悪の事態に陥ってしまった。

 幸い、故米倉正大氏ならびに辻井一美(ひとみ)氏の両氏のご尽力により1999年5月「李寧熙後援会」が設立され、1999年7月から同会報『まなほ』が隔月版で刊行され、先生の解読作業は再開された。しかし、当初、この事実を知る人さえ少なく、かってのような李寧熙万葉集が大きな衝撃波となって、日本列島を席巻する日がまた再び来るであろうか。まことに心細い状況が続いていたといわざるを得なかったのである。

 辻井編集長は『まなほ』60号の編集後記で、「六十回目の編集後記を書く日が来るとは、夢想だにしなかった。創刊から十年という月日が流れたことも、信じられない。」と述べているが、歴史と言葉に関する誤りを正し、真実を追求する会報『まなほ』の力が、この十年の歳月の重みの中で、次第に波紋を広げ、強い光を発し、輝きを増してきております。まことに心強い状況が出現しつつあります。

 『まなほ』における辻井編集長の「編集部のティータイム」、「取材同行紀」を始め、仕田原猛さんの「李寧煕が解いた古代地名を歩く」、滝沢きわこさんの「上田・佐久の民話」、「信濃の鉄ものがたり」、宮島武義さんの「神の川流れし郷 真田」など李寧熙先生の業績を認め、広く世に知らせて行きたいと願う人々の登場です。 「まっすぐ」・「真実」の意味を持つ会報『まなほ(manaho)』は、万葉集の“真の意味”・“日本語の語源”・“古代日韓交流史”をまっすぐ見つめ続け、真実を白日の元に晒し(sarashi)て行くことでしょう。このホームページのURLをhttp://manaho.sarashi.com/としたゆえんであります。

 李寧熙先生の熱烈ファン(オッカケ)をもって任じている私は、今、李寧熙先生や李寧熙後援会に断りもなく、まして頼まれたわけでもなく、いわば勝手連的な活動として「李寧煕後援会紹介のホームページ」を立ち上げ、さらには「李寧熙万葉学研究のホームページ」なるものの立ち上げまでを夢想している。なぜか?それは、李寧熙先生の業績を広く世に知らせたい一心からであり、万葉集解読に関する「李寧熙先生の方法」をマスターする人、出でよ!の気持ちからであります。このホームページについて関係各位のご理解を心より願う。  

   2009年10月         李寧熙後援会会員   土屋進一(信濃國住人)

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このホームページの見方

1 このホームページは、李寧熙先生のすべての著作を一所に集めて紹介し、興味をもっていただき、できるだけ多くの人に原著作に触れていただきたい、そして「李寧熙後援会員」になってもらい、同会報『まなほ』を購読願いたい、との希望のもとに作成している。

2 書店を訪れたとき、その本がどんな本か、自分が買わなければならない本なのか、パラパラっとめくって「目次」と「はじめに(序文)」を一読すると分かるものです。
李寧煕先生の著作、特に単行書については現在それができなくなっております。
 自宅にいながら、内容確認ができればと思い、会報『まなほ』各号の表紙の画像と内容紹介並びに単行書の「目次」、「はじめに(序文)」の全文を紹介させていただいております。
 お忙しい方のために、「李寧煕先生のオッカケが選んだ“李寧煕語録集”」でも確認ができるようにしました。単行書の中古本購入方法も“解読を読む(単行本)”で紹介しております。

3 このホームページは李寧熙先生あるいは李寧熙後援会とは、無関係です。このホームページに対する疑義・ご意見等がある場合はsin1278※yahoo.co.jpあてメール(実際に送る場合は※を@に変えてください。)をお願いします。
 なお、このホームページの内容について引用等をする場合は李寧煕先生の著書名(フルネーム)を付すようにしてください。

4 1989年8月20日「もう一つの万葉集」初版発行、この日をもって「平安万葉集」に対する「もう一つの万葉集」すなわち「李寧煕万葉集」がスタートしたと考えています。今後輩出するであろう研究者の便を考え、「漢字の羅列としての万葉がな」・「李寧熙訓」・「その意味」・「解説」からなるデーターベースないしは「李寧熙万葉仮名解読語句索引」的なホームページにしたいとの願望を持っております。その際、原著作等を表すのに次のとおりの略号を用いることにします。
  会報『まなほ』…(ま)
  もう一つの万葉集…(一)
  枕詞の秘密…(枕)
  天武と持統…(天)
  日本語の真相…(真)
  フシギな日本語…(フ)
  甦える万葉集…(甦)
  怕ろしき物の歌…(怕)
  もうひとりの写楽…(写)
  記紀・万葉の解読通信…(通)

関連書籍
  李寧煕が解いた古代地名を歩く(仕田原猛著)…(歩)
  上田・佐久の民話(滝沢きわこ著)…(民)
  信濃の鉄ものがたり(滝沢きわこ著)…(信) 
  神の川流れし我が郷 真田(写真集)(宮島武義著)…(神)

  万葉集…(万)
  日本書紀…(紀)
  古事記…(記)

5 なお、このホームページは経費節減のため「無料、容量無制限、多数の和風ドメインを選べる、商用利用可能」との説明のある「NINJA TOOLS」の「忍者ホームページ」を利用させていただいております。各ページの下段に「PR」が出ることをご了承ください。

  
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従来の万葉集の成立経過

(小学館ジャンルジャポニカ 「中西進氏解説」から)  

概  説
成  立
時  代
作  者
特  質
言  語
諸本と研究
後世への影響
参考書籍

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万葉集(まんようしゅう)

 現存する最古の歌集。全二〇巻。雑歌(ぞうか)、相聞(そうもん)歌、挽歌(ばんか)の三大部立を基本として歌を分類し、ほかに譬喩(ひゆ)歌、正述心緒(せいじゅつしんちょ)、寄物陳思(きぶつちんし)という表現様式による分類や四季の分類があり、問答歌、羇旅発思(きりょはっし)、悲別歌といった細部の分類も施されている。全歌数約四五〇〇首。そのうち長歌は約二六五首、旋頭(せどう)歌は六二首、仏足石(ぶっそくせき)歌は一首、残りの四〇〇〇余首は短歌であるが、これらは数え方によって異同がある。

 

成 立】『万葉集』は一時にできたものではなく、少しずつ増大していった。まず奈良時代初頭に巻二ができ、同じころにできた巻一を合わせて、最初の『万葉集』の中核をなした。巻三はこれをつぐ形で天平(てんぴょう)年間(七二九〜七四九)までの歌を収め、巻四も天平年間までの作を独自の立場で集めている。巻五は太宰府(だざいふ)における歌ノート、巻六は奈良時代の雑歌群、巻七は同時代の作者名のない歌群である。以後は趣を改めて、天平歌を四季分類した巻八、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)その他の家集を切り継ぎした巻九、巻八と同時代の無名歌群の巻一〇、古今の相聞歌を集めた巻一一、一二、伝承儀礼歌群の巻一三、東歌(あずまうた)の巻一四がつづく。これらは、天平の時点に形成された諸巻で、おのずから第二部万葉といった形をとっている。新羅(しらぎ)への使者たちの歌と、中臣宅守(なかとみのやかもり)、茅上娘子(ちがみのおとめ)の贈答とを収めた巻一五、由縁(ゆえよし)ある歌を集めた巻一六がこれに付加されている。その後に加えられた巻一七〜二〇までの四巻は、越中(えっちゅう)(富山県)赴任後の大伴家持(おおとものやかもち)を中心とした歌で、その周辺の下僚がしるしたとおぼしい歌ノートである。以上にもっとも深く関係するのは家持で、『万葉集』編集に家持の力がもっとも大きかったろうと想像される。しかし現形ができあがるのは奈良時代末か平安初期、あるいはさらに下ったころだったであろう。「万葉集」という名義は、「多くの詩歌の集」という意味(異説もある)で、未整理の雑然たる総体に対して、そのころ初めて命名されたものと思われる。

 

時 代】作者を伝える最古の作は磐姫の歌で、五世紀初頭のものとなるが、これは後代に伝唱されていた歌で、万葉歌の時代はほぼ大化改新(六四五)から律令国家体制の歩みとともに始まる。以後、壬申の乱(六七二)、七〇一年(大宝一)、七二九年(天平一)を区切りとして歌風上に展開がみられ、最終の日付をもつ歌は七五九年(天平宝字三)である。しかし、作歌の年代も作者名もしるさない歌々はこれ以後のものも含まれると思われ、奈良末期まで『万葉集』の時代は下るであろう。

 

作 者】伝唱歌の作者としては磐姫や雄略天皇があるが個性的な風貌(ふうぼう)はみせない。第一期に明瞭(めいりょう)に姿を見せるのは額田王(ぬかたのおおきみ)で、漢文学を大量に受容した近江朝(六六七〜六七二)に、伝統的な呪歌(じゅか)の世界から新鮮な叙情歌を生み出した。次いで第二期に登場するのは宮廷歌人柿本人麻呂で、宮廷歌という集団性の作歌によりながら、鋭い感性と豊かな想像力とによって日本文学史上にも希有(けう)な作品を残した。天皇賛歌や皇子、皇女の挽歌、また旅の歌や愛の歌などにわたって、長短歌約八〇首がみられるが、ほかに『柿本朝臣人麻呂之歌集(かきのもとのあそみひとまろのかしゅう)』の中に四〇〇首近くある。同時代には旅の孤愁を歌った高市黒人(たけちのくろひと)もいる。

 第三期は多くの歌人が個性的に活躍する時期で、山上憶良(やまのうえのおくら)は後半生の作の中に、人間凝視の激しい息づかいをみせ、世の無常、愛の惑いを数編の長歌に歌った。八〇首近い長短歌が残されるが、ほかに漢詩、漢文もあり、漢籍の素養深く、思索的、散文的傾向において独自の歌人である。大伴旅人(おおとものたびと)は透明な感性による美しい歌をみせ、太宰府における望京の歌、亡(な)き妻をしのぶ歌を主とするが、中国ふうな風流に遊んだ歌群もつくる。歌数約八〇首。山部赤人(やまべのあかひと)は宮廷歌人として人麻呂を継承しつつ、繊細にして端正な諸歌をつくった。とくに叙景にすぐれた歌人であったが、旅の歌、伝説の歌もつくっている。歌数五〇首。また高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)は諸国に赴任した卑官であったらしく、好んで伝説の長歌を詠(よ)んだ。栄達の望みない現実から、非現実の幻想世界に夢を求めていった歌人である。ほとんどの作が『高橋虫麻呂歌集』として残され、三四首がみられる。笠金村(かさのかなむら)も赤人同様宮廷歌人で、行幸に従った時の長歌を主として三〇首の作があり、ほかに『金村歌集』一五首を残している。志貴皇子(しきのみこ)の挽歌もすぐれている。

 第四期の歌人としては大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)、大伴家持らがいる。坂上郎女は旅人の妹で、家持と作歌をともにすることが多く、贈答の歌を主として八四首をつくり、天平年間の和歌の諸相を典型的に示している。旅人の子、家持は四七三首の歌を残し、青年期の恋愛歌、越中時代の充実した作歌、帰京後の宴席歌があり、内心の繊細なゆらぎを詩化した。このほか家持と贈答した笠女郎(かさのいらつめ)、越中で作歌し合った大伴池主(いけぬし)、恋の贈答を一場のドラマとした中臣宅守と茅上娘子らがいる。

 

特 質】第一に、万葉歌の時代は一〇〇年余にわたり、しがも、激動の時代であって、多様な歌を生むこととなった。また作者の階層も天皇、皇后から貴族、下級官吏、農漁民や乞食者(ほかいびと)など遊芸の徒にわたり、防人(さきもり)の歌もある。この幅広さも万葉の歌を多彩にしていて、ほかの歌集にみることのできない多様性と、混沌(こんとん)とした力を有している。第二に、この時代の和歌は草創期にあたり、歌体も多種、表現様式もいまだ固定せず、ふんだんに用いられる枕詞(まくらことば)や、類型化しない序詞の多用などにそれがみられる。この流動的な歌の様式は、『万葉集』の大きな特質の一つである。

 第三に、歌のつくられた場も複雑で、儀礼の賀歌、挽歌、民衆の労働歌、宴席歌、相聞歌、また戯笑歌、独詠歌を合んでいる。これら相異なる場が歌に対してもつ要求はそれぞれ異質であり、それらに対応した表現機能の非画一性を導きだしている。第四に、表現態度も多くは直情の表現をとりながら、けっして素朴に事実そのままの表現ではなく、虚構の歌もあり、和歌形式による物語の試みもある。ここに次代の諸ジャンルを胚胎(はいたい)する総合性をみることができる。そして第五に『万葉集』の歌の言葉は、生活の実態から遊離してはいず、十分言霊(ことだま)の信仰にささえられ、生活上の表現そのものであり、ときとして呪的であった。その間にあって、文芸の言葉として「歌をつくる」ことはむろんあったが、最終歌が雪の賀歌「いや重(し)け吉事(よごと)」であるように、『万葉集』が終始基本として持続したものは、言葉の生活性であった。『万葉集』の力強さは、この言葉のあり方による面が大きい。

 

言 語】『万葉集』の言語は、平安時代以後のものと多少ちがった点がある。その第一は、当時母音(ぼいん)に、今日のわれわれの持たないという三つの母音の加わっていたことである。これを乙類と称し、ふつうの母音を甲類とよんで、両者を区別することが通常おこなわれている。つまり、き、け、こ、そ、と、の、ひ、へ、み、め、も、よ、ろの一三音が、それぞれ甲乙両方の音をもち、これを表記する文字も原則として区別されていた。たとえば、支、吉、企などは「き」の甲類、奇、紀、貴などは乙類の「き」を表わすといった具合である。奴は「ぬ」、努、怒などは「の」の甲類、乃、能などは「の」の乙類の文字である。したがってという上(かみ)と、という神(かみ)とは、言葉として別のものだということになる。もっともこの区別は、東国の言葉によって書かれた東歌などをはじめとして、混同もある。掛詞(かけことば)の技巧などの場合にも、甲乙の区別が無視されることもあった。

 第二に、当時はまだかなができていなかったからすベてを漢字によって書きあらわしたわけで、その文字の用い方に大きな特色がある。まず、漢字を、もとの意味のままに用いる場合がある。たとえば、足、雲、羽などをそれぞれアシ、クモ、ハに用いる場合で、これはふつう正訓といわれる用字法である。これに対して、アシを阿之、クモを久毛などと書けば、これは漢字の音を借りて日本語をあらわしたことになる。さらに、これを来藻(くも)と書いたとしたら、来も藻も日本語の「くる」「も」という訓によって表わしたものだから、これは借訓ということになる。このほか趣向をこらした用字法があって、「イヅ(出)と書くときに「山上復有山」と書いている。これは出という字が二つの山を重ねた形であるところに由来したもので、中国にも同じ例がある。これば戯訓(ぎくん)呼ばれている。「八十一(クク)」は九九に基づいている。これらの用字法は彼らの苦心の結果であると同時に、戯訓のように、文字を楽しむという、知的興味にもよるものであった。

 また、語法にも後世とちがう点があり、形容詞には未然形、已然形の語尾に「け」が存したり、助詞「こそ」をうける形容詞型の末尾が連体形だったりする。これらや東国方言の訛(なまり)などは多少難解だが、一般的に『万葉集』の表現は平明、いわゆる万葉調と呼ばれる直線的なひびきをもち、彼らの心を高らかに今日に伝えている。

 

諸本と研究】『万葉集』はすでに平安初期から研究の対象となった。すなわち九五一年(天暦(てんりゃく)五)源順(したごう)ら梨壷(なしつぼ)の五人によって『万葉集』読解の作業が始められ(これを古点という)、現存の「桂(かつら)本」はこの読み方によると見る説もある。ついで平安後期までに少しずつ読解がなされ(これを次点という)、一方顕昭(けんしょう)の『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』など『万葉集』の言葉の解釈がおこなわれた。いわゆる「仙覚(せんがく)本」以前の古写本、「元暦(げんりゃく)校本」などはこの時期の読み方によっている。その後鎌倉時代に僧仙覚が諸本を校合し、未読の諸歌に訓点を施して、一応『万葉集』の大部分が読めるようになった。「西本願寺本」や江戸時代に流布した「寛水版本」など、多くは「仙覚本」の系統に属する。仙覚は注釈書『万葉集注釈』も著わしているが、室町時代にかけては由阿(ゆあ)の『詞林采葉抄(しりんさいようしょう)』(一三六六成立)、宗祇(そうぎ)の『万葉集抄』など歌人、連歌師によって研究がおこなわれ、江戸時代の下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)の『万葉集管見(かんけん)(一六六〇ごろ)、契沖(けいちゅう)の『万集代匠記(だいしょうき)』(初稿本一六八八、精撰本一六九〇)などに引き継がれた。やや遅れて北村季吟(きぎん)の『万葉拾穂抄(しゅうすいしょう)』(一六九〇刊)がある。この時期、万葉研究は国学の興隆にともなって盛んになり、荷田春満(かだのあずままろ)の『万葉集僻案(へきあん)抄』(一七三五成立)などを経て賀茂真淵(かものまぶち)の『万葉考』(一七六〇成立)に達する。江戸末期鹿持雅澄(かもちまさずみ)は『万業集古義』(一八四二成立)を著わしたが、明治以後は正岡子規(まさおかしき)の万葉尊重からアララギ派の歌人によって研究が進められる一方、佐佐木信綱(のぶつな)らの『校本万葉集』(一九二五刊)、正宗教夫(あつお)の『万葉集総索引』(一九三一刊)の完成によって文献学的研究が盛んになった。近代の全注釈書としては、井上通泰(みちやす)『万葉集新考』(一九一五刊)、鴻巣盛広(こうのすもりひろ)『万葉集全釈』(一九三〇〜三五刊)、諸家による『万葉集総釈』(一九三五・三六刊)、窪田空穂(くぼたうつほ)『万葉集評釈』(一九四三〜五二刊)、土屋文明『万葉集私注』(一九四五〜五六)、佐佐木信綱『評釈万葉集』(一九四八〜五二刊)、武田祐吉(ゆうきち)『万葉集全註釈』(一九四八〜五〇刊)、沢瀉(おもだか)久孝『万葉集注釈』(一九五七〜六八刊)などがあり、文芸学、民俗学、歴史社会学、風土学、比較文学などの視野からの研究も盛んである。

 

後世への影響】『万葉集』は後世さまざまに享受され、その影響は日本文学史をおおっている。『古今和歌集』は『万葉集』にはいる歌は採用しないといっている(実はある)が、当初「続(しょく)万葉集」と名づけようとしたことによっても、影響は否定できない。その後の勅撰集にも万葉歌は多く採られ、『拾遺和歌集』では一二二首がある。『玉葉和歌集』もこの次に多く八一首。藤原定家(ふじわらのていか)の関係した『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』も多く、前者は序文で、万葉を和歌の源だといっている。歌人としては源実朝(さねとも)が万葉調をもって知られているが、近世国学の勃興は万葉尊重の気風を生み、賀茂真淵一派の万葉調和歌がおこる。明治以後も正岡子規は万葉をたっとび、アララギ派に至る系譜の中で、万葉尊重は今日歌壇の主流を占めている。

 散文の分野でも『源氏物語』には嵯峨(さが)帝書写の万葉四巻が光源氏に贈られるという構想がたてられ、平安朝廷の女房世界における万葉享受を反映している。『枕草子(まくらのそうし)』にも藤原伊周(これちか)が万葉歌を朗詠するくだりがあり、『伊勢(いせ)物語』『大和(やまと)物語』などを経過して伝わった口唱の万葉歌が多かったことを推測させる。江戸時代の草紙類にも万葉歌が多く登場し、井原西鶴(さいかく)のものにはとくにいちじるしいといわれている。近代にはいっても折口信夫(しのぶ)の『死者の書』、近くは井上靖(やすし)の『額田姫王』などがあり、堀辰雄(たつお)も万葉に親しんでいる。そのほか連歌師は柿本人麻呂を歌聖とあがめるなど、俳諧(はいかい)、川柳、狂歌、また謡曲、浄瑠璃(じょうるり)にも及んで『万葉集』は大きな影響を与えている。
                          〈中西 進〉

 

参考書籍

▽『日本古典文学全集2〜5 万葉集』(小学館)

▽『日本古典文学大系4〜7 万葉集』(岩波書店)

▽中西進著『万葉の心』(毎日新聞社)

▽久松潜一著『万葉集入門・人間と風土』(講談社)

 

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