フシギな日本語 はじめに
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       はじめに 宝石をちりばめたことばのお城へ
 
 「お母さん。これ、日本語でなんと読むのか知ってる?」
  日本語を習っている娘が、「加特力」と書いた紙切れをヒラヒラさせな
 がら笑っています。「かとくりょく。それなんのこと? 加速力と違う
 の?」
 「カトリックと読ませるの、これで」
 「まさか!」
 「字引にちゃんと出てるわよ。じゃ、これは?」
  今度は「三鞭酒」と書かれた紙切れです。
 「さんべんしゅ?」
 「残念でした。シャンペンって読むのよ。さんべんだなんて聞こえが悪い」  「それはそうね」
  私たちは思わず吹き出しました。
 発音によっては変なものに思われかねません。
 「お次はこれです」
 「混凝土」の三字が眼前につきつけられました。
 「これも外来語? こんぎょうど……はて、混ぜてかたまる土だと? あ、   分かった分かった! コンクリートですな」
  「セイカイー」
  [でも、よくあて字されてるものね! 混凝土と書いてコソクリートと
 読ませるなんて。実にセンスが良い」
  私はつくづく感心しながら、『用字総覧』(池田書店)なるその字引きの  「漢字表記の外来語」ページに見入りました。

  「洋墨(インキ)」「温突(オンドル)」「金平糖(コンペイトウ)」「鬱金香
 (チ ューリップ)」「麦酒(ビール)」「天鵞絨(ビロード)」「錻力(ブリキ)」
  「鈕(ボタン)」「莫大小(メリヤス)」「亜米利加(アメリカ)」「亜爾然丁
 (アルゼンチ ン)」「浦塩斯徳(ウラジオストック)」[牛 津 (オックスフ
 ォード)] 「桑 港(サンフランシスコ)」「羅馬(ローマ)」……。
 
  要するに、これらは「新・万葉仮名」です。七・八世紀の日本で、古代
 韓国語を「日本式読み方の漢字の音・訓から生じる音声を借りて」書きあ
 らわしていたように、近代の日本に押し寄せた外来文化語を、「日本式漢
 字の音・訓から生じる音声を借りて」書きあらわしているのです。
 「浦塩斯徳(ウラジオストック)」が、その典型的なものといえるでしょ
 う。
 「浦(ウラ)」「塩(ジオ)」は、訓読みを借りて表記したケース。
 「斯(ス)」「徳(トック)」は、類似音の音読みを借りて表記したケース。
  このように、音・訓交ぜて書きあらわす、いわゆる「重箱(じゅうばこ)
 読み」または「湯桶(ゆとう)読み」。
 これこそ、上代日本の「万葉仮名」の書き方であり、古代韓国の「吏読(イ
 ドウ)」(古代韓国語を韓国式漢字の音・訓から生じる音声を借りて表記し
 た古代借字文)の表記法です。
  
  特に注目すべき点は、「浦」という字を選び用いることによって、ウラ
 ジオストックが「港」である事実まで暗示しているくだりです。
 万葉仮名もまったく同じ書かれ方をされていました。
 字義に関係なく、漢字を「表音文字」として用いたものの、なるべくそれ
 が意味する概念にふさわしい文字を選び取った……したがって、使われて
 いる漢字のカタマリをいちべつしただけでも、あるていどその語句や文章
 や歌の意味するところが分かる……という仕組み。非常に親切な書かれ方
 であるといえるでしょう。
  
  しかし、この親切さが災いして『万葉集』や『日本書紀』『古事記』
 『風土記』の万葉仮名表記部分の解読は、大いなる誤訳の泥沼におとさ
 れる破目になったのです。
  「莫大小」。便宜上、これを八世紀に書かれた歌の中の語句と仮定し
 て、この誤訳の過程を復元してみましょう。
 
  ある万葉歌の中に、「莫大小」という語が出てきたとします。
  歌の作者は、あくまで「メリヤス」のことを表記したのですが、後代の
 学者は、何をあらわすものかまったく分からず、これを漢文風に「大小と
 する莫れ」などと読んでしまいます。これで、歌意はもう完全に支離滅裂
 となり、フワフワ、モヤモヤのお化けの訓み下しが出現することになるわ
 けです。
  メリヤス物には伸縮性があります。「大きい人」にも「小さい人」にも
 良い加減サイズが合う。それで「大きい、小さいなどと心配する莫れ」の
 意まで含めて、「メリヤス」を表記するにあたり、「莫大小」という類似
 音でもある漢字を選んだ。これがことの真相なのですが、学者先生方
 は、決してそうお考えにならない。
 「莫大小が外国語のメリヤスだなんてコジツケも甚だしい。なるほど莫は
 マクともメとも読める。小もスと読んで無理はないだろう。しかし大はど
 うだ。どう見てもリヤとは読めないではないか。何が類似音か。馬鹿馬鹿
 しい。わしらは一生苦労に苦労を重ねて万葉仮名を研究してきたんだ!」
  と、「莫大小」を「メリヤス」と正しく訓んだ者に対してカンカンにお
 怒りになるわけです。
 
  ほかのことばについても大同小異です。「桑港」「羅馬」「亜米利加」
 ……。これらが八世紀の文献に登湯することばだと仮定してみましよう。
 学界はさぞかし大真面目で、字義を中心に定義を下すことになります。
  「桑港は桑がしきりに植えられていた港と思われる」とか、「羅馬には
 馬がたくさん飼われていたのであろう」または「羅馬はもともとらばを意
 味したものか」とか、「亜米利加」は「亜細亜にコメを売りつけて利を加
 える国だからか」などなど、ギャグとしか思われないような、とてつもな
 い推定が乱れとぶことになるのです。
  韓国語であるものを遮二無二日本語で読もうとする、また韓国語を漢字
 にあてはめて表記したものを、その漢字の義で解こうとする。そこから
 「誤訳」は定着する。しかし、なんだかしっくりしない。
 
  得体の知れない日本語の数々は、このような事情の中から生まれ落ちて
 きました。
  なぜそう呼ばれるのか、分かっているようで分かっていないことば。た
 とえば、「おふくろ」「くわばら、くわばら」「どろぼう」など。
  意味不明のことば。たとえば、踊りの歌ことばの「かっぽれ、かっぽ
 れ、あまちやでかっぽれ」など。
 
  そして、音でも訓でもないまったく異相の読み方で呼ばれる漢字語。た
 とえば、「飛鳥(あすか)」「白馬(あおうま)」「紙縒(こよ)り」など。
 
  日本語には、フシギなことばが晴れた夜空の星ほどもあるのです。これ
 はいったい何をあらわす、何語なのでしょうか。結論として、ただ一言申
 し上げましょう。日本語としてどうにも解けないことばは、一応、韓国語
 ではないかとうたがってごらんになって下さい。
  この「疑い」は、まさに魔女の杖の一振り。魔法の霧がするすると消え
 去り、宝石をちりばめたことばのお城がこつぜんとあらわれてきます。
  この本は、読者の皆様をそのお城にご案内するガイド・ブックです。
 
     一九九二年一月 李寧煕(イヨンヒ)
 
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