枕詞の秘密(枕) はじめに
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はじめに
 
  枕詞とは何か
 
  前著「もう一つの万葉集」で明らかにしたように、「万葉集」は韓国語
 で詠まれたものでした。
  そして今まで皆さまが「万葉集」と思いこんでいたものは、「万葉集が
 日本語で詠まれた」というまちがった前提に立って訓(よ)み下されたもの
 だということが分かりました。
  前提がまちがっていれば、服の第一ボタンをかけちがったように、次か
 ら次へとまちがいを生みます。
  枕詞というのは、この「まちがい」から生まれた子供のようなものなの
 です。いや、「捨て子」と呼んだ方がよいかもしれません。
  つまり、日本語でないものを日本語として訓もうとすれば、当然「読め
 ないことば」だらけになります。文法的にも矛盾が生じます。
  これらを正当化するためには苦しい「辻褄合わせ」をしなければならな
 くなります。そこで、まず「意味を持たないことば」または「意味が消滅
 したことば」という都合のよい「受け皿」を作ったわけです。この受け皿
 である大きな「くずかご」に放りこまれたおびただしい数の「捨て子」が
 枕詞なのです。
  枕詞は今日まで「意味が失われたまま伝承された」和歌の修辞用語とさ
 れてきました。「日本国語天辞典」(小学館)の定義はつぎのとおりです。
 
 『古代の韻文、特に和歌の修辞法の一種。(中略)一定の語句の上に固定
 的について、これを修飾するが、全休の主意に直接にはかかわらないも
 の。被修飾語へのかかり方は、音の類似によるもの、比喩・連想や、その
 転用によるが、伝承されて固定的になり、意味不明のまま受け継がれるこ
 とも多い。この修辞を使用する目的については、調子を整えるためといわ
 れるが、起源ともかかわって、問題は残る……』
 
  要するに枕詞とは「意味不明の修辞」「全体の主意に直接かかわらな
 いもの」「調子を整えるためのことば」とされてきたのです。
  しかし、私はここではっきりと申し上げます。
  意味がないとされてきた枕詞は、その歌において非常に重要な役割を果
 たしています。意味がないどころか、また全体の主意にかかわらないどこ
 ろか、枕詞はざらに主題であり、主題にかかわるものであり、モチーフで
 あり、モチーフにかかわるものであり、単なる形容句でなく、重要な歌辞
 そのものであるのです。それも、大部分、古代韓国語なのです。私はこの
 ことを、実例をもって証明するために本書を書きました。
 
 「枕詞辞典」(阿部萬蔵・阿部猛編)によれば、「枕詞」とされている語
 句はなんと一千七十八にも及んでいます。これらの語句が、「枕詞」とい
 うくずかごの中に捨てられて泣いているのです。
  枕詞は、韓国語で読み直すことにより、きちんとした意味をもつことば
 としてよみがえります。そしてその語句が使われているすべての歌にあて
 はまります。例えば、「あしびきの」を「長枕の」と解きましたが、これ
 で「あしびきの」が使われた百首以上の歌にぴったりとあてはまります。
  しかもたった三、四字の枕詞の解釈部分をプラスすることによって、歌
 は俄然「文学」として克明によみがえります。もしこれがコジツケである
 としたら、私は「創作の大天才」ということになるのですがいかがでしょ
 うか。
  しかし誤解なさらないで下さい。「あしびきの」、つまり「長枕の」ま
 たは「姫枕の」という真の意味を、例えば、「山のしづくに……(巻二
 の一〇七)」という従来のまちがった解釈につなげても意味は通じませ
 ん。「山之四付二……」以下を正しく解読してはじめてきちんとつながる
 のです。その点は大変勘違いしやすい点なので重ねて申し上げておきたい
 と思います。
 
  枕詞がいつ頃から「枕詞」と定義されてきたのかよく分かりませんが、
 原詩の意味を喪失した時点、つまり歌の原意が訓めなくなった時点で、
 得体のしれない「語義不詳語」なるものを一括して「枕詞」という便利な
 風呂敷に包んで捨てたということなのではないでしょうか。なんと罪つく
 りなことでしょう。
  歌作りの名人達が一句一句ハートで刻みあげた宝石のようなことばを、
 自分が識らないからといって、バサッと切り捨てている反文学的行為は、
 暴挙であるというよりはむしろ滑稽でさえあります。
 
 「非枕詞」について
 
 「記・紀」、「万葉集」にはいかにも「枕詞」でありそうで「枕詞」でな
 いことばも沢山あります。これを、私は「非枕詞」という言い方で説明す
 ることにしましたが、この「非枕詞」と「枕詞」はいったいどのような基
 準で区別されているのでしょうか。
  本書では、「ひとごとを」「ゆふされば」「にきたつに」の三つを、
 「枕詞でありそうで枕詞でないことば」の例としてとり上げることにしま
 した。
  結論から申しますと、これらの一群のことばは、「解けたと勘違いされ
 ていることば」です。
  わかり易くいいますと、「枕詞」は意味がないと規定したために、「解
 けた」、つまり「意味がある」とされた一群のことば(実は誤訳なのです
 が)は、「枕詞」といっしょに丸めてくずかごに放りこむわけにいかなく
 なってしまった、ということなのです。
  まったく、これでは学問もなにもあったものではないのですが、「万葉
 学」というのは、こうして築き上げたばかでかい虚城なのです。今そのお
 城が音を立てて崩れつつあります。
 「ひとごとを」を例にとれば、「人事乎」(万葉仮名の原文)を、「他人
 のことを」と解き、だから「人言を」だとこじつけ、これを「人のうわさ
 を」というふうに、飛躍してとんでもない意味をつけたのが従来の解釈で
 す。これは誤訳ですが、意味があると言ってしまった以上、枕詞と同一視
 することができなくなってしまったわけです。
  このようにして「枕詞」と「非枕詞」とは区別されているのです。した
 がって、両者は本来は、区別する必要のない語句です。
  枕詞は丸めて捨てられましたが、まちがった前提から生まれた二番目の
 子供である「非枕詞」は、ボタンをつけちがえた服を着て、歪んだ姿のま
 ま飛びまわっています。これもなんとか一日も早く救ってあげなければな
 りません。
  このように、「万葉集」は、韓国語で詠まれたものを日本語であるとい
 う前提で無理矢理解いた結果、「枕詞」「非枕詞」のほかに、「接頭語と
 片づけられているが、実は接頭語でないことば」や「語義不詳としてサジ
 を投げた部分」が積み重ねられ、「わけの分からない代物」として今日に
 伝えられてきました。しかし、誤訳と誤訳をつなぎ合わせてある意味を捻
 り出したり、使用された漢字の語意を巧みに反映して見事な歌を再創作し
 たり、訳にたずさわった人たちの天分を感じさせる、興味にみちたもので
 あることもたしかです。
 
 「体験的聴法」という鑑賞法が音楽にはあるそうです。自己の体験と繋が
 る思い出の延長線で、一種のセンチメンタル・バリューを込めて聴く……
 音楽が極めて感性的な芸術である所以です。
 万葉集」にもこのような「体験的読法」があることを私はよく理解してお
 ります。
 『金野乃(あきののの) 美草苅葺(みくさかりふき) 屋抒礼里之(やどれり
 し)……』 と朗々と諳(そらん)じて来られた方に、また叙情的なこの従来
 の訓み下し文に愛情を感じておられた方に、これは「新羅が戦争準備をし
 ているから百済は陣地を固めなされ」という斉明天皇の警告の歌(「もう
 一つの万葉集」第八章)なのだときめつける気は毛頭ございません。
  しかし真の意味は何であるかを識りたい方達のために、私はひたすら解
 いているのです。
  そしてその解いた結果があからさまな性愛歌であろうと、はたまた恐し
 い反逆のメッセージであろうと私には何の関係もありません。私は、私に
 見えて来ることを率直にリポートするだけのことなのです。
 
  ところで、韓国語に関する相当な誤解が日本の学者の一部にあるようで
 す。
  つまり「韓国語は十五世紀以降でないと資料的に細かな材料がない。要
 するに韓国古代語は消滅した。再構成されていない。それで八世紀の日本
 語の文献を当時の韓国語でよむというのは難しいはずだ」とする見方で
 す。果たしてそうでしょうか。
  四千五百十六首もある「万葉集」や「古事記」などの尨大な量の日本の
 文献に比べると、古代韓国語の資料が少ないことはたしかです。
  しかし、当時のことばの再構成が不可能であるほど少ないとはいえませ
 ん。「三国遺事」「三国史記」「桓檀古記」などの古史書や公文書には、
 郷歌(ヒャンガ)をはじめ、人名、地名、官職名や祭事、風俗にいたる吏読
 (韓国式万葉仮名)文体の記述が夥しく盛られているのです。それに加え
 て中国側の古文献も大分あります。
  これらの資料をもとに、古代語の研究は急ピッチに進められています。
 「資料的に細かい材料がない」「再構成されていない」とする見解は、韓
 国語が読めない、あるいは韓国学界の状況も知ろうとしない日本の一部の
 学者の専断であるとしか言いようがありません。
  自国語の母胎である古代語を再構成できないほど韓国の学者、特に若い
 学者や文学者は無能でもなく、学問的に体系化しないほどルーズでもない
 のです。
  また、古代語というものは、そのことばを使っていた民族が絶滅しない
 以上、そう簡単に消えさるものでもありません。
  ことばは、その国の文化がその国の民族によって伝承されている限り、
 強烈な保守性を持つ文化のたまものであるからです。
  上流のない中流、下流の川が、一体この世界のどこにあるでしょうか。
  私は言語学者ではありません。しかし、韓国語と日本語の両方に冷静な
 愛情と特殊な執念を持つ作家です。
  この水平的な立揚から申し上げます。遠からず日本の古代語は韓国の言
 語学者や文学者によって明快に解剖されることになるでしょう。韓国古代
 語の研究が進めば進むほど、日本の古代語は韓国語の領域内にすっぽり取
 り入れられるしかないのです。

  具体的な例を一つあげてみましょう。
 ブリ」(または「プリ」)という韓国語があります。このことばには意味
 が三つあります。
 
 A、@ 鳥などの「くちばし」
   A 物の「とがった部分」
   B 中が空いていて一方の奥が詰まっている瓶などの「口の先」
   C 山の「高み」
 B、@ 木や草の「根」
   A ものの「根元」
   B 物事の「根本」
 C、巫女ことばで、
   @家の「守り神」
   A先祖の「霊魂」
  (以上「ハングル大辞典」より)
 
  古代韓国語を漢字の音・訓を借りて綴った吏読でこの「ブリ」は、「富
 里」または「夫里」、「プリ」は「夫夫里」「波夫里」などと表記されま
 した。(「吏読辞典」より)
  「ブ」音に対し、「プ」は強く発音される硬音(フランス語の「プチ」
 の「プ」音のような濃音)なので、「夫里」にもう一字「夫」を重ね「夫
 夫里」と表記することによって音を強調するわけです。
  また「波」(パ)を「夫里」に重ねることによって「パ」の初声である
 「P」音を「ブリ」にプラスさせ「プリ」と読ませるのです。これが吏読
 の硬音表記法です。吏読は非常に構造的で独創的な書き方の借字文といえ
 るでしょう。
  ところが驚くなかれ、この「波夫里」(プリ)が日本語に化けているの
 です。
  「古語大辞典」(小学館)によると、「はふり」には二つの意味があり
 ます。
 A、「祝」または「波不利」(「和名抄」より)と表記し、「神に仕える
  者の総称」
 B、「羽触り」と表記し、「羽が触れること」で、「触る」の名詞形
  さて、この「A」の場合の「波不利」は韓国古代吏読表記の「波夫里」
 と同語で、シャーマンことばの「守り神」「先祖の霊魂」を意味する「プ
 リ」(またはブリ))なのです。
  韓国では「波夫里」と書いて「プリ」と読ませていたものが、日本に渡
 って来て、三字の文字音どおり、「はふり」と読まれ、「波不利」「祝」
 と表記されることになったのです。
  またその意味も、「守り神」や「先祖の雲魂」そのものから、「守り神
 や、先祖の霊魂を祭る者」という意味に若干転化されています。また「は
 ふり」は祭事において祝詞を読むので、「祝」というあて字を使ったもの
 とも思えます。
 
  さて、このように、
 古代韓国語→吏読で表記する→日本式吏読表記(つまり万葉仮名)に書き
 かえる→その漢字をそのまま日本式によむことによって生まれた日本語
 が生み出されるという形で少なからずことばが作られたということは、日
 本語の「語源のたどり方」について重大な意味をもつものです。
  すなわち、日本語は、一般の音韻の法則だけでは、その語源をたどるこ
 とのできないことばを含む特殊な言語であることを意味するからです。し
 かも、もしこのような形で作られた日本語が今後の解読の作業によって沢
 山出てくるということになれば、「日本語と韓国語は、同音同意のことば
 が少なくその関係は淡い」という考えもひっくり返ってしまうのです。
  韓国語から日本語になり変わっていることばは、「ビ・べ(光・陽)」
 →「ひ」、「ゲ(木)」→「き」、「ヅム(頭)」→「つむ」、「バム
 (晩)」→「ばん」などのような類似音語ばかりではないのです。
  しかし、ここでもう一つはっきりさせておかなければならないことは、
 「万葉集」は純粋な吏読書きだけでもなく、従来把握されてきたかたちの
 万葉仮名書きだけによる表記法で詠まれているものでもないという事実
 です。
  いわゆる「韓・日混合詠み」によって書かれているのです。
  この複雑な表記法は、複雑な当時の政治的、社会的状況から生み出され
 ています。
 
  埴原和朗先生(古代人類学)は、古代日本の原住民と、おもにアジア大
 陸からの海外移住民との比率は一対九内至二対八であるとされました。
 (東京大学「人類誌」九五巻三号)
  また崔在錫(チェジェソク)先生(古代社会学)は、古代日本に流入した
 海外移住者のうち絶対多数を占めていたのは百済人であるとされ、その
 第一の集団渡来の波は四〇三年から四○九年の間の六年間(三九六年、
 百済は高句麗の広開土(グンゲト)王つまり好太王によって殆ど潰滅に
 瀕した)に、第二の波は六六五年から六六九年の間の四年間(百済は六六
 〇年、高句麗は六六八年、新羅により滅亡された)に押し寄せたと論証さ
 れました。(「東方学志」六一号「古代日本に移住した韓民族と日本原住
 民数の推定」)
 「万葉集」が詠み始められたのは、この第一の波直後に当たり、また「万
 葉集」が集中的に詠まれているのは、まさに第二の波前後に該当するので
 す。
  二十万とも推定される、これら渡来人は王族、高官、学者、芸術家、軍
 人はじめ、先端技術を有するエリートたちでした。彼等は当然ことばと文
 字を日本に持ち込みました。ことばというのは古代韓国語、文字というの
 は漢字です。
  そして、当時の唯一の文字であったこの漢字を活用、古代韓国語を表記
 しようとしました。
  しかし、日本の上層階級には既に漢字が流通していました。百済の王
 仁(ワンイン)博士によって四世紀末にもたらされたといわれている漢字
 は、七世紀後半には大分日本化された音訓で読まれていたものと思われ
 ます。百済式音訓から一部日本式に転訛された形の音訓が流通していたと
 考えられるのです。
  このような漢字の使用状況の中で、その漢字を借りて歌を詠む、または
 公文書を書く、地名を表記するということになると、どういう事態が起る
 でしょうか。
  畢竟、お互いに通じることばを、またお互いに通じる漢字の音と訓を利
 用して書き表すことになるわけです。
  古代日本を占めていた者が使っていたことば、すなわち古代韓国語を、
 当時日本で流通していた漢字の音と訓を借りて表記することになります。
 これが主に中期までの「万葉集」の表記法であり、「古事記」などの一部
 万葉仮名表記部分の書き方です。
  日本の古代地名にもこの書き方が良くみてとれます。
  例えば三輪山の「三輪(みわ)」。
  「みわ」の古音は「みば」で、これは古代韓国語の「ミバブ」、水の御
 飯、つまりお酒のことです。お米で作った白いにごり酒はまるで水に漬け
 た御飯のようであったところから「ミバブ」と呼ばれたものです。
  この「ミ(水)パブ(飯)」という古代韓国語を、日本式漢字のよみ方
 を借りて吏読風に表記したのが(純粋な吏読ではない)「三輪」なので
 す。
  つまり、「三」の日本式訓よみは「み」、韓国の古訓も「ミ」。「輪」
 は日本式訓よみで「わ」、古音「ば」。二字合わせると「みば」になるの
 です。「日・韓混合音訓よみ」でよむと、「万葉集」「古事記」が訓める
 というのは、「万葉集」「古事記」がこのような書き方で表記されている
 からです。
 
  漢字を一応日本式音、訓でよんだところから生み出される音に古代韓
 国語をあてはめる……という複雑な書き方をしているのです。しかもこの
 「三輪」のように、「ミバブ」の終声である「ブ音を消して「ミバ」とし
 て表記しています。これが吏読表記法と異なるもっとも特徴的な点です。
 吏読は大体終声を別字に独立させたりして綿密に表記します。吏読の解読
 が難しいのは主にこのためです。
  ともあれ、三輪はお酒の名産地であったので「ミバブ」と呼ばれていた
 のでしょう。ちなみに付け加えますと、「みき」と呼ばれた「神酒(み
 き)」「御酒(みき)」も「三輪」と同義語です。
 「み」は水の意の古代韓国語「ミ」、「き」も韓国語(古代語も現代も同
 じ)の「キ」で食事のこと。要するに「水食」で、同様お酒の意です。
  ところが、ここで不思議な事実が発見されます。
  数詞の「三」は、日本語で「み」と呼ばれますが、高句麗語でも「ミ」
 なのです。また「輪」は韓国語で「バキィ」と称し、この第一音目の
 「バ」と日本式訓よみの「わ」の古音「ば」はまったく同音なのです。日
 本式漢字の古代音・訓よみと韓国式漢字の古代音・訓よみは、このように
 繋がっているのです。七世紀後半の日本において漢字の音訓は大分日本化
 されていたであろうと思われるものの、それは、実は百済式、高句麗式、
 新羅式の音・訓をミックスした上での転訛であることが推測されます。
 
  私は、私の問題提起について、その中身が正しいとか正しくないとかい
 うまえに、日本の方々に、どういう問題を提起しているのかをまず理解し
 ていただきたいと思います。
  幸い、なんの固定観念なしに、素直な気持で前著をお読みになって下さ
 った多くの読者の方々は、私の主張の本質をよく理解して下さいました。
 むしろ、「万葉学」という歪んだメガネをかけると本質が見えなくなりま
 す。
  どうかもう一度、「万葉仮名の原詩」に立ち反って、冷静に考え直して
 いただきたいものと存じます。
 
 この本を丁度書き終えた時、政府内に新しく発足した文化部の主催で新年
 音楽会が聞かれました。
  大雪の降る夜でした。
  前の席におられたKBS放送の徐英勲(ソヨンフン)社長が耳よりのニ
 ュースを伝えて下さいました。
  「李光洙(イグンス)先生も、『万葉集』を韓国語で解いておられたよ
 うですよ」
  李光洙……韓国近代文学の父と崇められている小説家。日本の植民地で
 あった苦しい時代に民族運動を興した近代思想家。(一八九二年生まれ)
  徐社長が保管しておられる李光洙蔵書の一部に、昭和六年刊改造文庫
 「作者別万葉全集」(土岐善麿編著)があって、そのトビラぎっしり解読
 メモが書き込まれているというのです。
  翌朝、早速その本を借りて来て驚きました。
 「惜しむ」は「アシム」(惜しい、物足りないの意の韓国語)であるなど
 と、私が解いているものとまったく同じ解読メモが発見されたからです。
 
  李光洙先生が、「万葉集」をどこまで解読なされていたのかは、知るす
 べがありません。メモはきわめて断片的であるからです。しかし、「万葉
 集」が韓国語で詠まれていると考えておられたことは確かです。
  韓国人は、特に韓国の文学者はこのように、「万葉集」には本能的に惹
 かれます。これは、帰巣本能のようなものかもしれません。
  日本のおたからである「万葉集」は、同時に韓国の類ない、財宝でもあ
 るのです。この両国の文化の接点に、両国協同で新たに照明をあてること
 こそもっとも本質的な文化交流でありうると私は信じます。
  韓国では、大雪の降る年は豊昨年であるとされています。今年は是非、
 韓国と日本を結ぶ文化の豊作年であって欲しいと思います。
 執筆にあたり、色々と助言いただいた小林恵子(やすこ)先生(古代日本史)
 はじめ、日本の皆様方の並々ならぬ友情に、熱い感謝を捧げます。
  また、「これこそ韓日・日韓親善」と、常に励まし意欲づけて下さった
 韓日議員聯盟の朴泰俊(パテジュン)会長(浦項綜合製鉄会長)に心から
 お礼申し上げます。
 
 
    一九九〇年正月          李 寧煕(イヨンヒ)
 
 
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