やまと言葉を遡る−李寧煕の解読を基に− はじめに
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はじめに
 一九八九年八月、文藝春秋社から韓国の作家、李寧煕(イヨンヒ)女史著の『もう一つの万葉集』が出版された。その内容は、万葉仮名で書かれた『万葉集』四千五百十六首のうち、意味不詳あるいは難訓歌とされている十一首を取り上げ、古代日本語・古代韓国語と吏読(イドウ)(古代韓国語を漢字を用いて表記した借字文)の知識を駆使して解読したものであった。吏読については。二七ページに述べてあるので参照ねがいたい。
 李寧煕女史の主張は次の通りである。

 『万葉集』は、五世紀から八世起にかけて、主として渡来人貴族によって詠まれたが、『万葉集』は、単なる花鳥風月、人間の喜怒哀楽を詠んだものでなく『政権確立の宣言・人物批判・闘いへの檄など、政治的なメッセージが多く含まれている。正しく()んで『日本書紀』『古事記』『風土記』など日本の古史書や『三国史記』『三国遺事』などの韓国の史書と綿密に比較検討することで、日韓の歴史の真相が浮かび上がる。
 『万葉集』には、六千を超える、いわゆる枕詞がある。これらは今日まで、意味が失われたまま伝承された和歌の修辞用語とされできたが、古代韓国語で読むと、はっきりとした意味を持つ言葉であり、修辞用語でなく主として歌の本体である。また枕詞の他に、意味のない接頭語として片づけられているものも、古代韓国語でよめば、きちんとした意味を持っている。

 李寧煕女史は、『もう一つの万葉集』に続いて、『枕詞の秘密』(一九九〇年四月)・『天武と持統』(一九九〇年十月)・『日本語の真相』(一九九一年六月)・『フシギな日本語』(一九九二年四月)・『甦える万葉集』(一九九三年三月)・『(おそ)ろしき物の歌』(一九九三年十月)を続けて出版した (以上七冊文藝春秋刊)
 『もう一つの万葉集』の読者の中には、李寧煕女史の考えに理解を示す人たちも数多くいた。一九九〇年一月、「もう一つの万葉集を読む会」が発足、同時に会員誌(月間)『記紀・万葉の解読通信』が発行された。やがて会員数は、二千人にも達した。
 これに対し日本の学界の批判は厳しいものがあった。多くの国文学者たちが反対意見を述べた。計量比較言語学者の安本美典氏は、『朝鮮語で「万葉集」は解読できない』(一九九〇年二月)を、国文学者の西畑幸雄氏は『古代朝鮮語で日本の古典は読めるか』(一九九一年十一月)などを出版し、反論した。
 ただ、私が不思議に思ったのは、反論している学者が古代韓国語・吏読はおろか、現代韓国語すら知らない人たちであるということであった。  『記紀・万葉の解読通信』は、一時、中断したこともあったが、一九九八年八月発行の第九二号まで続いた。その後、一九九九年五月には「李寧煕後援会」が発足し、七月に会報(隔月)『まなほ』が発行された。 『まなほ』は十七年間、途切れることなく続いたが、李女史の健康のこともあり、二〇一六年五月号(第一〇二号)をもって終刊した。
 これまでに李女史による『万葉集』の解読は、約百五十首に及び、結果として古代日本史上の事件・人物についても従来説を覆す多くの発見があった。
 解説の過程で日本語の語源解明が進んだ。日本語の基になる言葉は、上古以来、朝鮮半島の各国からの多数の渡来人によってもたらされた。それが日本の風土の中で変化・成長し、日本語が形成されてきた。
 私は『まなほ』の終刊を一つの区切りと考え、「日本語のルーツが韓国語にあること」に関する考察をまとめることとした。
 一般に、二国間の言語が同系統である証拠として、身体語・天体語・数詞の一致が挙げられる。私はそれだけでなく、「名」「菜」「魚」「叩き「皮」「箱」「葉」など日常生活に密着した純粋な「やまと言葉」と思われている日本語の語源を取り上げて、李寧煕説を紹介しながら私見を交えて述ぺることとした。
 日本語と韓国語のつながりを主張する人・否定する人々の意見も簡単にまとめて李寧煕女史との違いを紹介した。
 長年取り組んできた「李寧煕の法則」を応用した「植物和名の語源」についてもまとめてある。
 世界の先進国で、自国語のルーツか不明という国はそう多くない。一衣帯水と言われる日本と韓国の関係に目を向け、日本語のルーツは韓国語であるとご理解いただくことを切望してやまない。
 執筆中に病状か悪化し入院を余儀なくされた。以降の編集作業・内容補足は「李寧煕後援会」会報『まなほ』編集長の辻井一美(ひとみ)さんに引き継いでいただいた。
 妻・順子(のぶこ)には全面的に協力してもらった。理解と後押しがなければ、出版に漕ぎつけることはできなかったと思われる。

 出版を快く引き受けていただいた海風社の作井文子社長はじめ、編集部松井初美取締役部長に心からお礼を申し上げる。また海風社との橋渡しをかって出てくださった金敬善(キムキョンソン)韓国語学院理事長森本紀正氏や、手助けしていただいた『まなほ』会員の斎藤淳子さんにもこの場をお借りして厚くお礼申し上げます。
                                       仕田原 猛
 
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