日本語の真相 はじめに
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      一本の毛糸で編まれた素敵なセーター  

  編み物には惹(ひ)かれます。
 一本の長い長い毛糸が、みるみるうちに素適なセーターになってあらわ
 れてくるなんて、まるで童話の中の魔法のようではありませんか。
  それに、あの出来立てのパンのようなふっくらした感触は、優しく甘い
 愛情を思わせてくれます。
  このごろはもっぱら「着る方」の役割ばっかりですが、以前は「編む方」
 にも相当凝ったものです。
  模様を考えながら、一目一目丹念に編み上げていく作業は、一字一字精
 魂をこめて綴り上げていく物書きの仕事に似ていないでしょうか。
 
  日本語も、韓国語という一本の長い長い毛糸で編まれた素適なセーター
 です。この毛糸には「漢語」という色違いの粒々がついていて、それがま
 た独特な品格を生み出しています。
  あるセーターが、一本の毛糸で編まれたものであることを証明するため
 には、全部解きほぐさなければなりません。
  どうすればほどけるでしょうか。
  編み込んだ側から解きほぐすのです。

  語源についてもこれと同じことがいえます。
  言葉を編み込んだ側から解くといとも簡単にほどけるのですが、編み込
 まれた側から解こうとすると金輪際ほどけません。
  あらゆる努力の積み重ねにもかかわらず、いままで日本語の語源をとら
 えることができなかったのは、日本語を編み込んだ韓国側から解かず、編
 み込まれた日本側から解こうとしたからです。
  韓国側からは呆気にとられるほどすんなり見えるものが、日本側からは
 まったくの暗闇で、その暗黒の中を、ウロウロ「語源探し」をなさってい
 るという姿は、なんとも滑稽で悲しくさえあります。

  言葉は人間について廻ります。
  人間の移動、文化の移動は言語の移動を意味するものです。
  いままで使っていた言葉をすっかりかなぐり捨てて、人間だけがやって
 くるものでもなく、花の種のように風に吹かれて山越え川越え、言葉だけ
 がフワフワやってくるものでもありません。
  「千字文」や「論語」などの漢籍にしても、百済人がたずさえてきて、
 日本に先住していた人々に教えたものです。本だけが船便で送られてきた
 のではありません。百済人は、一体何語で漢字や漢文を教えたとお考えで
 しょうか。
  言葉は支配者の言葉で統一されます。
 
  古代の日本にやってきた韓国人グループは、「稲作」「鉄器」などの先
 端文化を誇る支配集団でありました。
 日本への集団移動は「三つの波」に大きく分けられます。
 
  第一の波は、紀元前三世紀あたりから紀元後一世紀にかけて、農耕技術
 とともに韓半島南部より主に押し寄せます。
 「伽耶・新羅およびその前身の部族国家群の波」です。
  大陸から半島にまたがる広大な地域を占め、世紀前後にあいついで建国
 した高句麗(ゴグリョ)・百済(ペクジェ)・新羅(シンラ)・伽耶(ガヤ)および
 その前身の夫餘(プヨ)・馬韓(マハン)・辰韓(ジンハン)・弁韓(ビュンハン)
 など古代国家の誕生は、これらの地に先住していた人々を逐出するこにな
 ります。
  先住民、特に、その上層階級の者たちは、海を越えたすぐ向かい側の、
 暖かく豊かな日本列島に雪崩を打って避難しつづけました。
  一方、伽耶、新羅は建国の勢いを駆り、上古の日本に力を伸ばします。
 『古事記』『日本書紀』『風土記』の神々の中に、伽耶系および新羅系の出
 が目立つのはこのせいです。
  しかし、伽耶は六世紀半ば新羅に併合され、多くの渡来人がまた日本に
 流れ込みます。
 
  第二の波は、四世紀末の「百済の波」です。
  高句麗の広開土大王(三九一年即位、四一三年没・日本では好太王と呼
 ばれる)は、決定的な打撃を百済に与えます。王族はじめ、高官、軍人、
 学者たちは、技術集団を引き連れ大挙日本に渡り、難を避けます。
  日本に多くの漢籍がもたらされたのも、この時期にあたります。
 
  第三の波は、七世紀後半の「百済・高句麗の波」。
  六六〇年の百済滅亡、六六八年の高句麗滅亡の際、両国の権力層は学者
 や僧侶、医者をはじめありとあらゆる分野の専門家や技術者を伴い、日本
 に集団亡命をきめこみました。
 
  以上、三つの大きな「韓国人(特にエリート集団)渡来の波」は、その
 必然的結果として、日本に韓国語の形跡を深く残すことになります。
  第一の波による伽耶・新羅ことばの跡。
  第二の波による百済ことばの跡。特に、漢字の日本式音・訓に与えた百
 済語の跡。
  第三の波による百済・高句麗ことばの跡。特に文化語に見える百済語の
 跡。
  これらの複合的堆積の上に、飛鳥ならびに奈良時代の日本語は形成され
 ることになるのです。
  八世紀前半に大部分編纂された『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉
 集』が、古代韓国語で訓める所以です。
 
  二つの国の言語が同系統のものであることを証明するためには、まず、
 もっとも基本的な言葉である身体語や天体語などが同じでなければならな
 いといわれています。
  「日・韓両語は、これらの言葉において全然異相である。したがって日
 本語は韓国語と同源でない……」
  日本の学者の一部はこのように断定なされています。
  しかし、日本語の身体語や天体語のほとんどが、韓国語としっかりつな
 がっている事実に、私は再三驚嘆せざるをえません。
  身体語一つ取ってみても、「あたま」「おつむ」「おでこ」から、[め]
 「まよ(まゆ)」「ちち」「おっぱい」「むな(むね)」「はら」「へそ」
 「もも」「ほと」「ふぐり」「て」「あ(あし)」にいたるまで、欠くこと
 なくすべてです (第二章参照)。

 
  そして、これらは韓国語が日本語になり変わる、三つの法則によって明
 快に立証されます。
 韓国語が日本語に変貌する過程は、次の三つのケースにまとめられます。
  @音韻変化の法則によるケース。
  A意味の変化によるケース。
  B吏読(韓国式万葉仮名)表記を日本式に音よみすることによるケース。
  例えば、韓国語のp音が日本語のh音になり変わるとか、韓国語のj音
 が日本語のs音になるとか……韓国語の終声(語末音)は、日本にくると
 ほとんど例外なく消されるか、もう一つの音に独立するとか……などのこ
 まごまとした音韻変化の法則による変転ぶりが、この@のケースにあたり
 ます。
  韓国語の「頭」の意の「デゴル」が日本語の「額」の意の「おでこ」の
 「でこ」に、「吸うもの」の意の韓国語「パイ」が日本語の小児語「おっぱ
 い」の「ぱい」になっているなど、意味の変化による変転プロセスがAの
 ケース。
 
  そしてBのケースは、世界に類例のない、韓・日間独自の変化の法則を
 示すものです。
  古代韓国語を、「漢字の音よみと訓よみから発生する音声を使って」あ
 らわしたものが「吏読」なる表記です。この漢字表記を韓国式に原音で読
 まず、日本式に音よみし、この音声を一字一音の万葉仮名表記に書き換え
 たところから日本語が誕生しているという、文字を媒体としたまか不思議
 な変転過程(第一章・第三章参照)。
 @とAのケースは、ラテン諸がロマンス諸語に変転しているプロセスを思
 わせるもので、従来の韓・日比較言語追究の手も、ここらあたりまでは伸
 びてきているようです。
 
  しかし、問題は第三のケース。これに関する研究は私がやっと始めたば
 かりです。
  日本語と韓国語と……まるで異相の二つの言葉同士、ぴったり同義同源
 である場合が多いのは、このようなプロセスを経て生み落とされている日
 本語が少なくないせいです。  
 韓国語という母胎から生まれた日本語。  
 語末音が消され、濁音が清音化され、濃音(強い破裂音)がやわらげられ
 、語意がメタフォア化され……ついに「詩」として韓国語から昇華してい
 る美しい日本語。  
 この奇蹟の言語の前で、私は文化の偉大さに圧倒されます。日本語はなん
 と奥深く流麗な言葉であることでしょう。
 
  鋭くて温かい記者の富田武三さん(週刊読売)は、ある日こう言われま
 した。
 「李先生の説を日本人が事実として認めるのは、おそらく五十年後のこと
 でしょう」
  そうかもしれません。
  古代韓国語が日本語になっているという事実。
  これを認めることは、日本の方にとってある種の「勇気」を必要とする
 ものです(もちろん、そうでない方も大勢おられますが……)。
 日本と韓国の間に阻(はば)かっている、あのどろどろとした溝のような障
 害を跳び越す勇気。
  溝そのものがなくなれば、「溝コンプレックス」も消え失せます。溝を
 なくすのに、五十年はかかるということなのでしょうか。
  認められようと認められまいと、事実は事実です。
  しかも、認められようという色気など、学者でない私には最初から一切
 ありません。
  でも、「五十年後」の新しい世代のために、私はいま「一本のリンゴの
 木」を植えましょう。
  この一冊の本が、そのリンゴの木です。
 
     一九九一年三月一日
                        李 寧煕

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