書き終えて

書き終えて

 今、やっと書き終えたところです。

 夜中の一時。開け放した窓から唐松の香が流れてきます。季節を感じるのは、まったく、何カ月ぷりのことでしょう。  ひどく、苦労しました。机にしがみつきっきりの悪戦苦闘で、ついに手足の関節がこわばり、まるで達磨大師のようなのです。

 「書く」という仕事に、こんなに苦労したのもはじめて。こんなに面白い仕事をしたのも、またはじめてです。苦痛なんかなんのその、驚異の連続が、仕事のエネルギー源になってくれていたようです。

 それで、この驚きシリーズについての感想を、結論がわりにまとめておきたいと思います。



 ■驚きその一 全文韓国語で書かれていること


 『万葉集は、お宅のことばで書かれているのですよ』とおっしゃられたのは、政治評論家の故御手洗辰雄先生でした。もう二十年以上も前のことです。

 『へえー本当かしら』と、申し訳ないことに、当時は気にも留めず聞き流していました。

 ところが、日本の歴史教科書の問題で、古事記・日本書紀の勉強をやり出し、否応なく万葉仮名につきあたり、御手洗先生のお話を思い出していた時、はからずも、ペン・エンタープライズ社の池田菊敏社長から”万葉集の韓国語よみ”をすすめられました。

 これが、万葉集との劇的な出蓬いのきっかけです。

 初めは、「歌のうちの一部が、韓国語であるらしい」くらいの感じで踏み出したのですが、驚くなかれ、歌の全文がそっくり韓国語であることに、一時呆然としたものでした。

 四千五百十六首全歌をよみ終えたということではないので、たしかな数字は言えませんが、@全文韓国語よみ、A韓日両国語二重よみ、B韓日両国語混合よみの、三つのタイプにおおむね分類されるのではなかろうかと思われます。

 少なくともここで本格的に解読した十一首は勿論、引例として部分的に解いた六首の歌もすぺてこの三つの範疇に入ります。

 おもに、今まで解釈不能とされてきた未詳歌や難訓歌、問題歌を取り上げて解読にあたったので、このような結果を得たのかとも思われますが、額田王の歌一つにしても、解釈が三十種にものぽる「莫囂円隣之」ならともかく、「金野乃」など日本語で完全に解読できていると信じられている歌が、実は全文ユニークな韓国語でうたわれているのですから、驚くしかありません。

 しかし、韓国語で詠った万葉歌人のすべてが韓国系渡来人、またはその二、三世なのかについては断定できません。渡来四世以上とみなされる者まで、全文完璧な韓国語で詠っていたり、「はしだての」の枕詞で有名な「能登国歌」も、庶民同士、韓国語でやりとりしているのです。渡来系、非渡来系を問わず、八世紀ころまでは、韓国語を日本全国で広く使用していたということなのでしょうか。

 それにしても、この万葉歌人たちの韓国語式漢字訓読に対する実力と、韓国古代語に関する語彙の豊富さに、またまたびっくりさせられます。

 したがって一つの漢字に、幾通りもの意味を与えてよませている韓国語式訓読法に関する正確な知識なしには、万葉歌の正解は不可能に近いといえます。

 例えば、「公」。音は「ゴン」一つよみなのですが、訓には九つものよみ方があります。「共」の意の「ハンガジ」、「明白」の意の「パルグル」、「尊称」の意の「オルン」、「父」の意の「アビ」などなど。このうちの何を使って詠むかは、その歌のムードや目的によって作者が勝手に決めているのですから、このあたりの事情をよく知らない立場からすると、万葉歌は難解であるしかないのです。



■驚きその二 枕詞は重要な意味を持つということ


 枕詞は従来、「意味が失われたまま伝承された」和歌の修辞用語となっています。日本国語大辞典の定義はつぎのとおりです。

 『古代の韻文、特に和歌の修辞法の一種。(中略)一定の語句の上に固定的について、これを修飾するが、全体の主意に直接にはかかわらないもの。被修飾語へのかかり方は、音の類似によるもの、比喩・連想や、その転用によるが、伝承されて固定的になり、意味不明のまま受け継がれることも多い。この修辞を使用する目的については、調子を整えるためといわれるが、起源ともかかわって、問題は残る』

 要するに枕詞とは、「意味不明の修辞」「全体の主意に直接かかわらないもの」「調子を整えるためのことばとも言われるもの」なのです。

 枕詞辞典(阿部萬蔵・阿部猛編)によると、その数は今のところ一千七十八語とされていますが、類似語が多く、枕詞とすることに異説のあるものも含まれているので、常用語句数は切りつめて五百語あたりでしょうか。

 五百にしろ一千にしろ、膨大な語句数であることは確かです。この膨大な数の古代修辞がほとんど意味不明だというのですから、これは日本国文学上の深刻な問題点であるはずです。それにもかかわらず、枕詞の意味の解明に日本国文学界が冷淡なのは、いったいどういうことでしょう。

 枕詞を古代韓国語でよむと、実にすんなりと、明快に解読されます。日本の一部国文学者の先生方は、このことを窺知されていて、敢えて「よもう」「解こう」としないのでは……と、邪推したくなるほどです。

 『万葉集においての枕詞は、@主題にかかるもの(または主題そのもの)Aモチーフにかかるもの(またはモチーフそのもの)B序詞を含む歌辞そのものであるものとに類別される、重要な意妹を持つ修辞である』と、私はここではっきり申し上げます。『それも大部分、古代韓国語なのです』と。

 意味がないとされてきた枕詞が、その歌において非常に重要な役割を果しているという事実、これが第二の驚きです。

 たった四、五字のこの形容句一つで、歌は俄然克明に刻印され、生き生きと甦ってくるのです。意味がないどころか、また全体の主意にかかわらないどころか、枕詞はざらに主題であり、主題にかかるものであり、モチーフであり、モチーフにかかるものであり、また単なる形容句でなく、重要な歌辞そのものでもあるのに驚かされたわけです。

 『こんなに魅力的な修辞が死蔵されているなんて、まったくもったいない! 今度この仕事を終えたら「枕詞の解釈」に挑戦しよう』

 私は、またぞろ大それた欲を出し、またぞろ苦労を自ら招くことになりそうです。



 ■驚きその三 日本語の接頭語の大半は接頭語でないということ


 接頭語は、広辞林によると、『ある語の上につけて、語調を整え、またはその意味を強め、あるいはある意妹を添える語』です。

 「佐丹(さに)」の「さ」、「真櫂(まかい)」の「ま」、「伊可伎(いかき)」「伊許芸(いこぎ)」の「い」……山上憶良の七夕歌一つとりあげても、所謂「接頭語」とされている正体不明語がぞろぞろ出てきます。

 しかし、これも枕詞の場合と同じで、形容詞、副詞などの役割をしている韓国語なのです。したがって、現在接頭語とされている日本古代語は、大部分接頭語でないのです。ある語の上にかかる語義不詳語は、だいたい「接頭語」として、きれいさっぱり簡単にかたづけている手際のよさに、また驚かされたわけです。



 ■驚きその四 性愛表現において大胆きわまること


 長年、新聞記者生活をしていましたが、私はもともと童話作家で、つい一年前までは、公演倫理委員会の委員長役を務めていました。日本の映倫のように、映画やビデオの猥褻シーンなどを審議する社会機関で、「児童文学者カッコウの役職」として任ぜられたわけです。

 ここで三年間、人生にもう嫌気がさすほど、猥褻の泥水にどつぷりつかっていたので、この「泥だらけ」の任期をやっと終え、みやびやかなる「万葉」の仕事をやり出してからは、救われたような清浄感に胸を張ったものです。  ところが、この「万葉」、韓国語でよむとすごいエロなのです。全部が全部、そうというのではありませんが、恋歌(こいうた)は大体濡れ場を臆することなく展開しています。その堂々とした率直さに圧倒されながら、私は困惑し、途方に暮れました。

 『エロ映画の見過ぎが崇って、思考感覚がおかしくなったのでは?』とハンセイしたり、『こんなはずじゃあないのに』とあわててよみ直したり、何回もくりかえし努力しても、矢張りそうよむしかないのです。

 しかし、なんという健康さ。直截で大胆きわまりない表現を駆使しながら、繊細な美意識でさらりと描写している格調高い愛のドラマ。エロ・グロのシーンをじょきじょきはさみで切って、「はさみの女王」と悪評されてきた私も、『ウーン、ナルホドねえ……』とうなるしかありませんでした。

 と同時に、ほっとしました。

 さすが、「万葉」は、エロ歌などではなく、真の意味の文学であったからです。たとえ「切ろう」としても、切りようがないわけです。

 とくに、憶良の「七夕歌」は、類いまれな青少年文学ともいえるでしょう。こんな素敵な愛のテキストは、今まで見たことも聞いたこともありません。児童文学者としても、大いに面目が立つということです。



 ■驚きその五 世界に類例のない古典であること


 「万葉集」の価値については、再三強調することもなかろうと思います。しかし、「世界に類例のない素晴らしい古典である」ことについての比較認識は、かえって日本の方には、あまりないのではないかと思われます。

 韓国と日本、中国、三つの国の語文を縦横無尽に活用しながら、愛と死、政治と戦いなど、古代人の生活や歴史を鮮やかに浮きぼりしている五−八世紀の古典文学が、ほかのどの国にまたあるものでしょうか。しかも、その数量たるや断然世界一なのです。四千五百十六首、これが驚きでなくてなんでしょう。よくも残したりです。

 まことに悲しい話なのですが、「万葉」とおよそ同時代の韓国の古代歌、「百済歌詞(がさ)」は、なんとたった一首「井邑詞(ジョンウプサ)」しか残っていません(これがまた素晴らしい歌です)。郷歌(ヒャンガ)と呼ばれる新羅の歌は、それでも大分残されていますが、「万葉」の数には較べものになりません。相次いだ侵略や戦乱の、不幸な歴史の結果です。この点、日本は文化的にも非常に幸運な国であるわけです。

 「万葉集」をよみながら、日本語という不思議な言葉について、じっくり勉強し直す機会を得たことは幸いでした。また韓国古代語の勉強に輪をかけることができたのも、意外の収穫です。


 家族ぐるみであとおししてくださった池田菊敏社長や、豊田健次出版局長はじめ文藝春秋の皆様の熱意と愛情に、心からなる感謝を捧げます。


『ゴマブスムニダ(有難うございます)』


万葉仮名風の表記で ー


『高真心而多(ゴマシムイダ)』





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