天武と持統 はじめに
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  はじめに
 
                       カラスの羽に書かれた
                       墨字のメッセージ
 
  六世紀後半、敏速天皇の時のこと。
  ある日、高句麗(ゴグリョ)から天皇あてに国書が届きます。しかし、黒
 いカラスの羽に黒い墨字で書かれた手紙なので、誰もそれを読み取ること
 ができません。
  どうしたものかと朝臣一同が慌てふためくところに、船史(ふねのふび
 と)の王辰爾(おうじんに)なる人物があらわれ、まずカラスの羽を御飯の蒸
 気で蒸します。その羽に柔らかい絹の布を押しあてて字を写し出し、国書
 を読みとることに成功したというのです。
 
  この『日本書紀』の記述はまことに示唆的です。
  『万葉集』は、そして『古事記』『日本書紀』『風土記』の万葉仮名表記
 部分は、まさにカラスの羽に書かれた墨字のメッセージなのです。「写し
 出す術(すべ)」を識(し)らなければ、メッセージは永久に暗い沈黙の闇に
 沈むしかありません。
  しかし、その「術」というのが、カラスの羽の場合のように、すぐれて
 創意的ではあるものの、難渋きわまる「学問」に属するものでなかったこ
 とは幸いでした。
 
  漢字を一応日本式音よみまたは訓よみでよませ、そこから生じる音声を
 古代韓国語にあてはめるという表記法がそれです。換言すると、古代韓国
 語を、「日本式音・訓よみによる漢字」を借りてあらわしているというこ
 となのです。
  このような書かれ方の『万葉集』や「上代歌謡」などを、従来の「万葉
 仮名よみ」なるものにしたがって、つまり一宇一音の訓み下し方にだけ頼
 って無理矢理日本語としてよんできたので、まったくらちのあかないフワ
 フワ・モヤモヤした歌として現在に伝えられているのです。
  音・訓ゴッチャマゼなんて可笑しい……と、中世韓国語専門の日本のあ
 る言語学者が言われたそうですが、私はこの方の「専門知識」に、多いな
 る失望を覚えざるを得ません。
  漢字の音と訓とを徹底的に混用して幅広く古代韓国語をあらわした借
 字文が「吏読(イドウ)」(郷札(ヒャンチャル)とも呼ばれた)なる表記法で
 あるからです。そして吏読は、中世の韓国においても公文書などに大いに
 用いられていたのです。
 
  この世界に類ない独創的借字文である吏読表記の技術を導入して、より
 簡明に、当時の言葉を表記しようとしたものが、「万葉仮名」の名で識ら
 れている「日本式吏読」です。
 しかし、この表記法の難点は、日本式漢字の音・訓のみならず、吏読のよ
 うに韓国式音・訓まで一部活用してことばをあらわしているところにあり
 ます。しかも『万葉集』の場合、詠まれた時期や作者によって各々少しず
 つ異なる表記法を駆使してもいます。また後期の歌や『記・紀』は、主に
 一字一音で表記されています。……この多様性が悩みの種です。
  世界の各国語が確として固まっている現代の常識からすると、奇想天外
 とも、自由奔放とも見えるこの借字法も、四世紀から八世紀にわたる韓国
 と日本の、いとも流動的かつ多岐的な漢字のよまれ方からすると、むしろ
 当然であったと思われないでしょうか。
  まかふしぎなこの借字法を否定するかぎり、千二百年前に書かれた日本
 の古文献を判読するということは、これからまた千二百年かけても不可能
 でしかありません。
 
  そして、この訓み方によって『万葉集』をよむと歴史が見えてきます。
  特に、韓国の古代国家(高句麗(ゴグリョ)・百済(ペクジェ)・新羅(シン
 ラ)・伽耶(ガヤ))の勢力と日本が濃密にからみあい、どろどろとした権力
 争いをくりひろげていた時代、あの謎だらけの七世紀後半の真相が見えて
 くるのです。
  これが驚きでなくてなんでしょう。
  『万葉集』は文学であるばかりか、史書でもあるのです。正しくいえば、
 『記・紀』『風土記』などの歴史書を、生き生きと裏付けし、また、その
 歪曲部分を是正もしてくれる、すばらしい「証拠文書」であるとせねばな
 らないでしょう。
 私は、本書によってそれを実証しようと努力しました。
  『万葉集』を訓み解く、そして『記・紀』を読む、韓国の古史書『三国
 遺事』と『三国史記』、中国の歴史書も併せて読む……これを丹念に繰り
 返し、北東アジア的フォーカスから人物相互の関係を洗っていくと、何と
 そこに現われるのは、私たちが探し求めて止まなかった霧の中の歴史の真
 の姿であるのです。私は、これを「もう一つの古代史」と名づけようと思
 います。
 
 『書紀』の記述は、ある明確な意図のもとにストーリーをふり分け、そし
 て引き延ばして書かれているようです。
  つまり、時の為政者に都合の悪い部分は、架空の天皇を創り、その天皇
 の物語として振り分けられたのです。
  こうして創造された人物を継ぎ足し、押しあげるようにして築かれた歴
 史が、戦前の「紀元は二千六百年」であるわけです。
  例えば、第四十代の天武天皇の行跡は、第二代の綏靖(すいぜい)天皇条
 と、また第十四代の仲哀(ちゅうあい)天皇条と仲哀の皇后に関する神功(じ
 んぐう)皇后紀などに分散記述されています。天武条に書かれていないこ
 とが、ここに記されていると思われるのです。
  つまり、綏靖紀には天武が天智を殺害している経緯が、仲哀紀と神功皇
 后紀には、天武天皇が急死している事実がきちんと分載されているのです。
 『書紀』は、ある意味においては非常に正直であるといえます。推理小説
 的ヒントをふんだんに与えることで、史実を「告白」しているのです。
 
  架空人物の名前が重要なヒントの一つです。
  天武天皇のおくり名と綏靖天皇のおくり名はぴったり同義であり、綏靖
 天皇皇后と仲哀天皇の后であった神功皇后の幼名は、天武天皇のお后であ
 った持続天皇の出身をあらわすことばとつながります。
  第四十代の天武と、第十四代の仲哀……などとしているあたりも偶然と
 ばかり思われない「作為」に見えるのですが……。
 ともかく、今回はこの天武天皇と持続天皇を中心とした、壬申の乱前後の
 歌ときに照明をあてることにしました。
 
 『万葉集』や「上代歌謡」などの歌を『記・紀』とあわせ訓むことによっ
 て、また『記・紀』にあらわれる人物の名前や、地名などが意味するもの
 を解くことによって、衝撃的な史実が明るみに出てくる過程をご覧になっ
 てください。
 ことばの説明をより明快にするため、日本語の語源についても相当ふれて
 おきました。古代韓国語から日本語になっていることばは、想像以上の広
 範囲に亘っている事実を、多少とも御理解いただければ望外の喜びです。
 
  いずれ、日本語の語源に関するお話も、まとめて書いてみたいと思って
 います。「不詳」「未詳」または「誤推」だらけの日本語の語源集などを見
 る度に、なんとも悲しい思いに駆られます。
 最後に、私の古代史探険の旅に、いつも正確な地図を拡げて下さる小林恵
 子先生(日本古代史)に深謝、向後ともよろしくお願いする次第です。
 
 
    一九九〇年六月一日          李 寧煕
 
 
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